■代表の戯言

2014年にこんな文章を書いていました。


この法人に関わる私たちは全員がひきこもり経験を持つ”元”ひきこもりです。「元ひきこもり」というと、「ひきこもりから復帰した人だからもう何の問題も無いんでしょう?」と思われがちですが、実は多くの元ひきこもりが、実際には不安や孤独と日々向き合いながら何とかギリギリ生きている状態です。その理由は人それぞれですが、ひきこもっていた期間が長ければ長いほど、人間関係や所属する居場所などの社会関係の多くが失われてしまっているため、いざ復帰したときに孤立してしまいがちである、ということが大きいと言われています。そのような孤立状態にある元ひきこもりは、今何とか社会生活をしているだけなので、ほんの些細なきっかけでまたひきこもりに戻ってしまう可能性が高い、非常に不安定な状態であるといえます。 つまり、普通の人と何一つ変わらない生活ができる人は、そう多くはないのです。  しかしながら、今をギリギリ生きているとしても、このように「現状、社会で何とかなっている」人には、サポートがほとんどありません。また私たちは基本的に、誰かに助けを求める事が苦手なのです。だからどうにもならずに、ひきこもるしかなかったのです。 2010年、外に出て仕事もやっていた仲間が「すまない」とだけSNSに書き込み、命を断ちました。彼は助けを求めていましたが、彼を助けてくれる場所は無かったのです。  私たちは、最後の力を振り絞ったのに救われない話はもう嫌だと、皆が思っています。最後の最後には救われる場所が必要なのです。そしてそれが無いのならば、自分たちでやるしかない。  私たちは、元ひきこもりなどの不安や孤独に陥りがちな人々のために、居場所づくりと自助会を行うことで、孤独や不安に立ち向かい、生きづらい社会で生きてゆく力を共に見つけ出す活動を行っている当事者団体です。


 これを読んでいると、いろいろな事を懐かしく思い出します。もう会えなくなってしまった人たちの顔を、ぼんやり思い浮かべます。そして、卑怯だなとも思ってしまうのです。あいつらのことです。いつ思い出しても、みんな若いあの頃の顔のままなんです。こちとらもう36歳、痔に腰痛に階段を上がれば息切れして、鏡を見れば随分老けたオッサンだなと思いながら、こうして汚く生きている。今もしんどいことばかりです。
 聖書の「マタイによる福音書」16章にこんなシーンがあります。イエスが「この後死ぬけど復活するから案ずるな」と弟子に説くシーンです。これを聞いた弟子の一人は「いや先生、死ぬとか言っちゃ駄目です」といさめるのですが、イエスは即座に「悪魔よ引き下がれ」と答えます。…どういうシーンなんだ、笑
 僕はキリスト教徒ではありませんので、この部分の宗教的な解釈はわかりません。ただ、この時のイエスというオッサンのセリフには少しなるほどなと思う部分があるんです。みんなは大切な人の「死ぬ」というネガティブな部分しか今見えなくなっている。イエスは「その後に復活する」という、一般的には理解しがたい物すごいことを言っているのに、そこについては誰も気にしないというか、全く聞こえていないわけです。希望は既に示されているのに、みんながそろって絶望しかみれなくなっている。イエスはきっとそれを指して「悪魔」と例えたのだと思います。
 さて僕には…今を生きる人には…新しい出会いがあり続けます。もちろん去る人もいます。でも、来る人は必ずいる。僕はその喜びを見失わないようにしたいです。いなくなったあいつらには二度とわからないことだと思います。残念でした。
 僕はもう少し前を見て歩きます。まあたまには振り返りながら。


2023年3月22日 泉翔


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